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宥和政策とポーランド問題

第一次世界大戦で受けた膨大な損害への反動から、英仏両国は戦争忌避と平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義及びソビエト連邦をけん制する役割をナチス・ドイツに期待し、彼らの軍備拡張政策に対し宥和政策を取っていた。ヒトラーは、周辺各国におけるドイツ系住民の処遇問題に対して民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。

1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。 次いでヒトラーは、チェコスロヴァキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであることを確認して妥協し、ドイツはズデーテン地方を獲得。その後1939年3月15日、ドイツ軍はプラハを占領し、チェコを保護国とした。さらにポーランドがチェコのテシェン地方を、ハンガリーがルテニア地方を獲得し、チェコスロバキアは解体された。

ヒトラーの要求はこれに止まらず、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊及び国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求。英仏にとって前年のミュンヘン会談が妥協の限界であり、ヒトラーにとってミュンヘン会談の成功は、更なる要求への一歩でしかなかった。ミュンヘン会談での合意を反故にされた英仏は、宥和政策を捨て1939年年3月31日、ポーランドとの間に軍事援助を約束。ドイツとの対決姿勢をみせることになる。同年4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ヨーロッパに戦争の危機が迫る。そんな中、各国は外交上の駆け引きを展開し、ドイツはソビエト連邦と1939年8月23日、独ソ不可侵条約を締結。反共のナチス・ドイツと共産主義ソビエト連邦は相容れない、と考えていた世界中を驚かせた。
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この条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト3国、フィンランド、ルーマニアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを黙認した。一方、ポーランドは英仏からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否。ヒトラーは武力による問題解決を決断する。1939年9月1日未明、ドイツ軍はポーランドへ侵攻を開始し、9月3日、英仏両国はポーランドとの援助協約に基づきドイツに宣戦布告。ここに第二次世界大戦が勃発した[3]。

大戦は、1939年にナチス・ドイツがポーランドへ侵攻したことに始まる。1940年にはドイツが北欧侵攻や日独伊三国軍事同盟で勢いが増し、1941年にはドイツ軍はソビエト連邦に侵攻。同年末には日本とアメリカが参戦してドイツの戦況に影響を与えた。1942年にはドイツ、イタリアの枢軸国は徐々に行き詰まり、1943年には連合国が優勢になり、枢軸国は北アフリカを放棄し、イタリアが降伏。1944年には連合国の勢いが更に増し、枢軸国は次々と降伏。1945年にドイツ軍は総崩れとなり、追い込まれたヒトラーは自殺。ナチス・ドイツは降伏して欧州における戦争は終結した。

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2009年06月25日 00:47に投稿されたエントリーのページです。

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