2009年06月25日

宥和政策とポーランド問題

第一次世界大戦で受けた膨大な損害への反動から、英仏両国は戦争忌避と平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義及びソビエト連邦をけん制する役割をナチス・ドイツに期待し、彼らの軍備拡張政策に対し宥和政策を取っていた。ヒトラーは、周辺各国におけるドイツ系住民の処遇問題に対して民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。

1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。 次いでヒトラーは、チェコスロヴァキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであることを確認して妥協し、ドイツはズデーテン地方を獲得。その後1939年3月15日、ドイツ軍はプラハを占領し、チェコを保護国とした。さらにポーランドがチェコのテシェン地方を、ハンガリーがルテニア地方を獲得し、チェコスロバキアは解体された。

ヒトラーの要求はこれに止まらず、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊及び国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求。英仏にとって前年のミュンヘン会談が妥協の限界であり、ヒトラーにとってミュンヘン会談の成功は、更なる要求への一歩でしかなかった。ミュンヘン会談での合意を反故にされた英仏は、宥和政策を捨て1939年年3月31日、ポーランドとの間に軍事援助を約束。ドイツとの対決姿勢をみせることになる。同年4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ヨーロッパに戦争の危機が迫る。そんな中、各国は外交上の駆け引きを展開し、ドイツはソビエト連邦と1939年8月23日、独ソ不可侵条約を締結。反共のナチス・ドイツと共産主義ソビエト連邦は相容れない、と考えていた世界中を驚かせた。
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この条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト3国、フィンランド、ルーマニアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを黙認した。一方、ポーランドは英仏からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否。ヒトラーは武力による問題解決を決断する。1939年9月1日未明、ドイツ軍はポーランドへ侵攻を開始し、9月3日、英仏両国はポーランドとの援助協約に基づきドイツに宣戦布告。ここに第二次世界大戦が勃発した[3]。

大戦は、1939年にナチス・ドイツがポーランドへ侵攻したことに始まる。1940年にはドイツが北欧侵攻や日独伊三国軍事同盟で勢いが増し、1941年にはドイツ軍はソビエト連邦に侵攻。同年末には日本とアメリカが参戦してドイツの戦況に影響を与えた。1942年にはドイツ、イタリアの枢軸国は徐々に行き詰まり、1943年には連合国が優勢になり、枢軸国は北アフリカを放棄し、イタリアが降伏。1944年には連合国の勢いが更に増し、枢軸国は次々と降伏。1945年にドイツ軍は総崩れとなり、追い込まれたヒトラーは自殺。ナチス・ドイツは降伏して欧州における戦争は終結した。

2009年06月10日

備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の

備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、山陽道に位置する。現在の岡山県の東南部に香川県小豆郡と直島諸島、兵庫県赤穂市の一部(福浦)を加えた地域にあたるが、成立時はこれより広かった。延喜式での格は上国、近国。

吉備国が7世紀後半に備前国、備中国、備後国に分割されて成立された。分割後の一時期、吉備道に属す一国だったと推定する説もある。この時の備前国は、後の美作国の領域と、小豆島、直島諸島を含んでいた。

和銅6年 (713年) 4月3日に、北部の6郡を割いて美作国が設けられた。

明治時代初期になってから廃藩置県後の都道府県整理時に、小豆郡と直島諸島を香川県に移した。また、福浦は地元住民の要望で1963年に兵庫県赤穂市に編入された。

平地に恵まれ、治水や水運に手頃な大きさの川が多かったので、古代から農業の適地であった。古墳時代からの鉄産地であり、塩田作りもまた古い。さらに瀬戸内海に面した海上交通の便のおかげで、経済的に豊かであった。面積は大きくないが、律令制では上国と位置づけられた。

平安時代から鎌倉時代には荘園が数多く設けられた。平安時代から、優れた刀工が集まり、長船派、一文字派など様々な流派が鍛えた刀は、備前物と呼ばれて重んじられた。やはり平安時代から始まって後々まで全国に流通した商品に、備前焼がある。当時の備前の中心となった町は、福岡であった。
テニス
セキュリティ
花火
仏教絵画
東北地方
壁画
日用品
セパタクロー
印刷
水球
アスペルガー症候群
学習塾
ベリーダンス
北陸地方
水彩画
恐竜
水墨画
両生類
ジオキャッシング
アニマルセラピー

室町時代には播磨国を本拠とする赤松氏を守護にいただくようになった。赤松氏の力が衰えると、山名氏の勢力が伸び、両者の戦いの中でしだいに国人層が成長した。戦国時代には守護代の浦上氏が主家の赤松氏の勢力を締め出して備前国を支配しようとするも、山陰で大大名となっていた尼子晴久が美作から南下の動きを見せ、備前西部に力を持つ松田氏が尼子方に付くなど苦戦している。しかし、尼子氏が衰退すると戦国時代末期には浦上氏の家臣宇喜多直家が主家を凌駕する力をつけ、ついには浦上氏を追い出して、備前国に美作国と備中国の一部も加えた戦国大名となった。これ以後、直家が居城にした岡山が備前国の中心になった。

直家の死後、後を継いだ宇喜多秀家が関ヶ原の戦いで敗れたため、宇喜多氏の領国はなくなった(秀家の従兄弟宇喜多詮家が石見国津和野3万石を与えられた)。秀家の後に岡山城に入った小早川秀秋が後嗣を持たずになくなると、幕府は備前国を池田輝政の次男忠継に与えた。後に岡山には池田の本家が入り、岡山藩は幕末まで備前国一円と周辺(時期により変動)を領国とした。江戸時代の備前では綿の作付けが広がった。以前から進んでいた児島と本州本土との間の海の干拓は、江戸時代にいっそう進み、児島と本土が地続きになった。

幕府調査による人口は、文政5年(1822年)が31万8,203人であった。明治政府の明治5年(1872年)の調査による人口は、33万1,878人であった。

2009年06月06日

動画(どうが)とは、動いている画像

動画(どうが)とは、動いている画像。なお、動かない画像は、単に画像と呼ばれるか、動画と特に区別する必要がある場合、静止画と呼ばれる。 多数の(時系列を細かく分割した)画像を高速に切り替え続けると、人間の視覚にはそれが連続的に見える、と言う特性を利用したものである。

(単に絵を何枚も連続で見せる「スライドショー」「紙芝居」とは異なることに注意。絵そのものを移動させるのではない。絵の一部が動いているかのように見えることが重要。)

時間軸が存在するという点で絵画や写真(静止画)等とは異なるメディアであり、狭義には「動く画」そのものを、広義には動画そのものに加え、その時間軸に同期させた音声・音楽と共に提供されるメディアパッケージそのものをまとめて指す場合もある。

動画と言う言葉は元々映像作家である政岡憲三がセルアニメーション(アニメ)の訳語として提唱したものが最初とされているが、今日においてはセルアニメーション、3DCG等と言った技法とは無関係に、上記のような性質を持ったメディアそのものを指す言葉としての用法が多い。

ちなみに、"movie"と言う英単語は一般には「映画」と訳されるが、英語圏においては本項における「動画」のような意味合いで用いられる場合もある(例:movie file→動画ファイル、など)

19世紀から末にかけて、ゾイトロープ(1830年ごろ)、フェナキスティスコープ(1833年ごろ)、プラキノスコープ(1872年ごろ)など、残像現象を利用した「動く絵」を見せるための道具は既に存在していた。 それぞれの構造は若干異なるが、基本的には紙の上に連続的に描かれた絵をスリットを通じて覗く事で絵が動いているように見えると言うものであった。

簡素な構造ではあったが、現代の動画と同じく残像を利用して人間の視覚上に「動き」を再現していると言う点で、動画の祖と呼べるものである。

動画が(メディアとして)扱えるようになったのは1890年代とされる。
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1891年、アメリカの有名な発明家、トーマス・エジソンによるキネストスコープ(kinestoscope)の特許取得。 これは、一定速度でフィルムを送り出す機構とそのフィルムの絵を投影するための光源で構成されており、現在の映写機によく似た機械であったが、現在の映画のようにスクリーンに投影する能力は無かった。

ほぼ時を同じくし、1895年、フランスの発明家オーギュストとルイのリュミエール兄弟がシネマトグラフの特許を取得。 これは、キネストスコープとは異なり、スクリーンへの映像の投影が可能であった。

キネストスコープ、そしてシネマトグラフの開発によって、それまで静止画によってしか撮影出来なかった風景や人物を動画として撮影出来るようになり、時間の流れや人物の仕草の変化などを、連続的かつ容易に、そしてより自然な形で記録・再生することが出来るようになった。 ただし、当時の撮影機はあくまで視覚情報のみを記録するものであり、また現像技術の制限から、撮影・再生される映像はモノクロであった。現在のように色付きの映像を扱ったり、音声や音楽を付随させることが出来るようになるのはもう少し後の時代になってからである。

2009年04月23日

御家人

平安時代には、貴族や武家の棟梁に仕える武士を「家人」と呼んでおり、鎌倉幕府が成立すると鎌倉殿と主従関係を結び従者となった武士を、鎌倉殿への敬意を表す「御」をつけて御家人と呼ぶようになった。鎌倉殿御家人、関東御家人、鎮西御家人とも言う。

御家人の成立は、源頼朝による鎌倉幕府の樹立と密接に関連する。流人だった頼朝の家人はごくわずかであり、1180年の挙兵の際、父源義朝の家人だった南関東の武士たちを「累代の御家人」として誘引したが、当時の観念では主従関係は個々に結ぶものであり、頼朝に従属しない武士も多かった。その後、鎌倉に東国政権を樹立すると、各地の武士が続々と頼朝支配下へと入っていった。急速に増加した支配下の武士を秩序だって組織化するため、以仁王の令旨が利用された。すなわち、令旨に従って頼朝の支配に入った武士は、一律に「御家人」として組織された。

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治承・寿永の内乱期には、本拠である関東のみならず、各地の武士をより多く御家人として組織化する必要があったため、平氏追討に従う武士を御家人として認定し本宅を安堵する「本宅安堵」が多く行われた。関東の御家人の多くが頼朝の所領安堵を通じて御家人となっていたのに対し、本宅安堵の御家人に所領安堵する権限を有していたのは荘園領主たる本所や国司だったため、頼朝は本所・国司の権限を侵すことなく、地位を安堵することで御家人を組織したのである。

このように御家人は、鎌倉殿から直接、所領安堵を受ける御家人と、本宅安堵を受ける御家人に分けられる。前者には東国に在住し、早い時期から頼朝に臣従していた者が多い。地頭職に補任されるなどの厚い保護を受ける見返りに、有事には緊急に鎌倉に参集する義務を負っていた。後者は、国を単位に編成され、「国御家人」と呼ばれた。治承・寿永内乱終結後は、大番役への催促を通じて各地武士の国御家人化が進められ、西国武士の多くがこれにより国御家人へ編成された。国御家人を統括するのは守護の任務であり、大番役を催促するとともに、大番役勤仕の御家人名簿を幕府へ提出していた。

御家人は、上記のとおり直接所領安堵・本宅安堵の区分のほか、広大な所領を持ち数カ国の守護を兼ねる有力御家人から、ごく狭い所領しか持たない零細な御家人まで大小さまざまな規模であったが、鎌倉殿に等しく従属する家人として身分上は同格として扱われた。頼朝以来、御家人相互の主従関係・支配関係は厳しく禁じられ、特に朝廷と直接の関係を結ぶことは厳禁された。

御恩と奉公
御家人が鎌倉殿から受ける恩恵は、安堵と給与である。安堵には前述のごとく所領安堵と本宅安堵がある。給与は、謀反追討などに勲功を挙げた御家人に対し、謀反人の所領などを新領として給与することである。所領安堵および新領給与は、地頭職への補任という形で行われた。承久の乱後には、後鳥羽上皇方の大量の所領が勲功を挙げた御家人へ新領給与されているが、この新領給与も地頭補任の形でなされており、この時に補任された地頭を特に新補地頭という。

御家人は恩恵を受ける見返りとして、鎌倉殿へ軍事と公事の奉仕義務を負う。軍事とは、戦時の従軍参加はもちろんのこと、平時においての京都・鎌倉の大番役や異国警護役などの役を指す。公事は関東御公事(みくうじ)ともいい、幕府から御家人に賦課された米銭の納入義務のことである。

こうした鎌倉殿と御家人間の互恵関係を御恩と奉公という。

鎌倉中期以降
史料から検出される御家人の数は決して多くはなく、関東諸国を除き、一か国あたり概ね10名程度にとどまっていた。関東諸国は他地域に比べて御家人が非常に多い地域であり、最も多い武蔵国の約80名をはじめ、各国とも数十名の御家人が在住していた。1275年の史料によれば、全国の御家人の総数は約480名であり、御家人は武士の中でも非常に限られた階層だったことを物語っている。

いっぽう、鎌倉幕府と御恩・奉公の契約関係にない「非御家人」の数も多かった。文永の役という対外危機に伴い、幕府は非御家人への指揮権も得ることになったが、幕府に従わぬ武士も多かった。永仁の徳政令以後は、非御家人に対する御家人への優遇策は顕著となり、非御家人の中には悪党となって幕府や公家・寺社への反抗を行う者も現れた。

鎌倉幕府の勢力が強まるにともなって、御家人は武士の身分を表す言葉となった。室町幕府は御家人制度を採らなかったが、御家人は将軍直参の武士の身分を示す用語としてしばしば用いられ、戦国時代には転じて一部の戦国大名の家臣を指す言葉となる。

2009年04月19日

ムンダの戦い

ムンダの戦い(むんだのたたかい、伊:Battaglia di Munda)は、紀元前45年3月17日にヒスパニアのムンダ(現:オスーナ)で行われたガイウス・ユリウス・カエサル派と元老院派(ポンペイウス派)との戦いである。

紀元前46年春より、ローマ属州ヒスパニア・ウルステリオルに於いてイレルダの戦いでカエサル軍に敗れた元老院派のベテラン兵士を中心として形成された軍勢が、小ポンペイウス(グナエウス・ポンペイウスの息子)を担いで蜂起することを宣言し、カエサルが任命したヒスパニアの各属州総督を追放して元老院派がヒスパニアを実効支配した。

また、タプススの戦いでカエサル軍に敗北した元老院派の残党もヒスパニアの元老院派の軍に加わると共に、同じく北アフリカから逃れた小ポンペイウスやセクストゥス・ポンペイウス、プブリウス・アッティウス・ウァルス及びガリア戦争でカエサルの腹心であったティトゥス・ラビエヌスも合流した。元老院派は、3つのローマ軍団(2つは従来からあるベテラン中心の軍、1つはヒスパニアに住むローマ市民から構成された軍)に加えて、ローマ市民権を持たないヒスパニア人やガリア人等から構成された軍勢を組織して、属州都であったコルドバを始めとしてローマ人居留地も含むヒスパニアの殆どへ勢力を伸ばした。

ヒスパニアをカエサルより任されたクィントゥス・ファビウス・マクシムス(Quintus Fabius Maximus)とクィントゥス・ペディウス(en:Quintus Pedius)は、元老院派が勢力を増すことに無力であり、カエサルに支援を要請した。

カエサル、ヒスパニア上陸
紀元前46年11月、カエサルは元老院派を討伐する為にローマを発って、カエサルが信頼を置く第10軍団エクェストリスや第5軍団アラウダエ、新しく組織された第3軍団ガッリカや第6軍団フェッラタ等のローマ軍を率いて(軍団兵の中にはヒスパニアで採用した現地人も多かったとされる)、紀元前46年12月にヒスパニアへ到着した。なお、この時にカエサルの甥に当るオクタウィアヌス(後のローマ皇帝アウグストゥス)がカエサル軍に帯同する予定であったが、オクタウィアヌスの体調が優れなかったこともあり叶わなかった。

カエサル軍の突然のヒスパニア上陸を利用した形で、カエサルは、ウリピア(Ulipia)を攻撃していた小ポンペイウスの軍を排除したものの、セクストゥスが守備するコルドバを陥落させることは出来なかった[2]。ラビエヌスの助言で小ポンペイウスは野戦を避けると決めた為、カエサルは兵糧を求めると共に陣営地を築いた。その後、カエサル軍はAteguaを攻囲戦の末に陥落させたが、これによってポンペイウス軍への信用と軍の士気に大きな打撃を与え、ポンペイウス軍に加わった現地兵が陣営を離れたり、元老院派のローマ軍団兵の中にはカエサル軍への帰順を計画する者もいた。この為、ポンペイウス軍は持久戦を放棄して、カエサルとの会戦を決意せざるを得なかった。

両軍戦力
カエサル軍とポンペイウス軍はムンダ(現:オスーナ)の平野で向い合い、元老院派(ポンペイウス軍)はムンダ市の防壁から程近い防御の容易ななだらかな丘に陣を敷いた。

軍勢はカエサル軍が8軍団、騎兵8,000人、ポンペイウス軍は13軍団、6,000人の軽歩兵、騎兵6,000人であった。 ポンペイウス軍の多くは過去の戦いで一度カエサル軍に降伏していた。そのためカエサルが再び許すことはないと恐れており(実際にカエサルはそのような捕虜を処刑していた)、死力を尽くして戦いに挑んだ。

ムンダの戦い
戦闘開始から暫くは両軍共に優劣がはっきりとせず、拮抗した激しい戦闘であった(後にカエサル自身も「何度も勝利の為に戦ってきたが、ムンダでは自分の命を守る為に戦わざるを得なかった」と語るほどであった)。また、戦闘中にカエサルは「私をあんな小僧に捕虜として引き渡して恥ずかしくないのか!」と兵士に向かい叫んだと伝わっている[3]。

スキミン ソーター ブロッキ レニア ツーリング ナスカ イジェクト ビッグ カット 管弦楽団 ユース イブ日本 バンコ ゾーニング フルスピ モンテ サクラ キット モメンタム スラング 波間 ヒロポン ハシソウ プレース ジャル めんだ トラベラ パロディ タイプ オーバー ウィグ パキラ そらち ダラー シロッコ バーベナ ダーク フリー スーツ マウス ネクタ ネチズ ヨット バリ デリン ブルーデー フェルト イーブン ブライ にしままい

カエサルは第10軍団が配置された右翼を指揮し、第10軍団はポンペイウス軍を押し込んでいった。小ポンペイウスは劣勢に立たされた自軍の左翼を強化するために自身が受け持っていた右翼部隊の一部を左翼へと派遣したが、ポンペイウス軍の右翼が手薄になったことを見て取ったカエサル軍の騎兵部隊及びカエサルと同盟を結んでいたボッグス2世率いるマウレタニア騎兵は攻撃進路を変更して、ポンペイウス軍の後背から攻撃を加えた。
ポンペイウス軍の騎兵を指揮するラビエヌスは、カエサル軍騎兵部隊の動きを阻止する為、戦線を移動しようとしたものの、ポンペイウス軍の兵士が、第10軍団が攻撃する左翼と騎兵部隊が攻撃する右翼が劣勢に立たされておりラビエヌス隊が退却に移ったと誤解したことをきっかけに、ポンペイウス軍は戦線が全面的に崩壊・敗走した。

カエサル軍はポンペイウス軍の敗走兵を追討して、ポンペイウス軍は約30,000人が戦死し、ラビエヌスも戦場で討死した(その後、かつての盟友の遺体と対面したカエサルは埋葬を許可したという)。一方のカエサル軍は戦死者1,000人、負傷者500人であった。

カエサルは、なおも抵抗するムンダに対する包囲戦の指揮官としてファビウスを残し、自身はヒスパニア平定に向かった。コルドバは降伏して殆どが武装した元奴隷からなる市内の兵士は全員が処刑され、コルドバは巨額の賠償金を課された。ムンダは暫く持ち堪えたものの、14,000人の奴隷を供出して降伏した。

小ポンペイウスは逃亡中にカエサル軍に捕捉されて処刑され、プブリウス・アッティウス・ウァルス(Publius Attius Varus)は戦死した。セクストゥスは大西洋岸まで落ち延びていったものの、カエサルの権力に抗しうるだけの軍勢はもはや持たなかった。ムンダの戦いでの勝利を以て、ローマ内戦は事実上終了、カエサルはムンダ戦勝の凱旋式をローマ市で挙行した。なお、この凱旋式でカエサルはマルクス・アントニウスと同じ車に乗り、その後ろにデキムス・ユニウス・ブルートゥスとオクタウィアヌスが随伴した[4]。

終身ディクタトル(独裁官)として並ぶ者の無い絶対的な権力を手中に収め、人生の絶頂を迎えたカエサルであったが、ムンダの戦いから約1年後の紀元前44年3月15日共和主義者によって暗殺された。

2009年04月04日

馬力

馬力(ばりき)は仕事率、工率の単位である。名前の通り、元々は馬一頭の持つ力を1馬力と定めたものであった。今日では、ヤード・ポンド法に基づく英馬力、メートル法に基づく仏馬力を始めとして、各種の馬力の定義がある。国際単位系(SI)における仕事率、工率の単位はワット(W)であり、馬力は併用単位にもなっていない。

1馬力というのは駄馬(荷を引く馬)が継続的に荷を引っ張る際の仕事率を基準にしており、単純に「馬の最高出力=1馬力」を表すわけではない。ペルシュロン等の重種が短時間に発揮できる力は10馬力以上とも言われる。ある雑誌での実験では、不健康な人間ですら1.76馬力が出てしまっている。

英馬力 [編集]
馬力という単位は、ジェームズ・ワットが蒸気機関の能力を示すのに、標準的な荷役馬1頭のする仕事を基準としたことに始まる。これが英馬力の起源で、数値的には「1秒間につき550重量ポンド(lbf)の重量を1フィート(ft)動かすときの仕事率」(550 ft?lbf/s)となる。こういう数字になった経緯は次の通り。ウマの牽引力の平均が180重量ポンド、1時間ウマに牽引させ進んだ距離が10852フィート、従って1時間当たりの仕事率は、180×10852=1953360フィート・重量ポンド/時である。そして1分当たりは、1953360÷60=32556≒33000フィート・重量ポンド/分となり、1秒当たりは約550フィート・重量ポンド/秒となる(これが1英馬力である)。ワットで表すと、1英馬力は約745.700ワットである。英馬力は、英語の"horse power"の頭文字をとって"HP"という記号で表される。"hp"と小文字で書くこともあり、また、"HP"を合字にした"?"(U+33CB、JIS X 0213 1-3-62)も使われる。

仏馬力 [編集]
仏馬力は、メートル法(重力単位系)に基づいて、英馬力の値にできるだけ近くなるように定義したものである。メートル法がフランス発祥であることから仏馬力と呼ばれる。その定義は、「1秒間につき75重量キログラム(kgf)の重量を1メートル動かすときの仕事率」(75 m?kgf/s)となる。ワットで表すと、1仏馬力は約735.498 75ワットである。こういう数字になった経緯は次の通り。約550フィート・ポンド/秒が1英馬力である。これをキログラム、メートルに換算すると、約75kgm/秒である(これが1仏馬力である)。仏馬力は"PS"または"ps"という記号で表されるが、これはドイツ語のPferdestärke(馬の力)の頭文字をとったものである。仏馬力と英馬力との換算は、1 仏馬力 = 約 0.986 英馬力である。なぜかといえば、仕事率を76.04kと換算すべきであるのに、75kと換算したからである。

日本での馬力表示 [編集]
日本の旧計量法では、1馬力は英馬力とも仏馬力とも違う750ワットとしていた。これを日本馬力と呼ぶことがある。

1999年施行の新計量法では日本馬力をやめて仏馬力を採用している(条文上はワットの735.5倍としている)。ただし、本文ではなく附則において、内燃機関・外燃機関の工率の計量に限定して「当分の間、工率の法定計量単位とみなす」として使用を認めているものである。これは、新計量法がSIを全面的に導入するために制定されたものであり、本来であればSI組立単位であるワットを使うべきであるが、馬力がいまだに広く使われており、これを廃止すると混乱を招くために移行措置として使用を認めているものである。今日でも、レシプロエンジンの出力表示にはキロワット(kW)とともに馬力(仏馬力)が併記されていることが多い。

また、日本では、エア・コンディショナー(特にビル用の大型空調設備)の能力も「馬力」という単位で表現されることが多い。元来の意味は、圧縮機を動かすモーターの出力(1馬力≒750W)を示していたが、現在ではモーターの出力と馬力数は必ずしも一致しない。正式な換算式は存在しないが、慣習的に1馬力≒2.8kW程度の空調能力(約8畳相当の空間を冷やす能力)とされている。[1]

派生した俗語 [編集]
転じて「馬力」という言葉は人間が仕事をするための精力・活動力(スタミナ)の意味としても使われる。
大相撲の隠語で、酒のこと。酒を飲むことを「馬力をかける」ともいう。酒を飲むと元気がついて馬力が出るところから、この言葉が派生した。

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2009年03月20日

九州特急「あさかぜ」の設定後

1957年(昭和32年)3月19日 「あさかぜ」の混雑緩和のため東京駅 - 広島駅間で増結を行う。編成の詳細
1957年7月20日 「あさかぜ」混雑緩和のため、東京駅 - 博多駅間を運行する不定期夜行特急列車「さちかぜ」が運行される。
「さちかぜ」は名目上臨時列車格となる「不定期列車」として運行されたが、実際には毎日運行となった。また運行ダイヤは「あさかぜ」の下り30分後、上り30分後と続行運転となった。
1957年10月1日 「さちかぜ」定期列車化。運行区間を東京駅 - 長崎駅間とする。また、「あさかぜ」の編成組成を一部変更。「あさかぜ」の全車両東京駅 - 博多駅間の運行となる。
この「さちかぜ」はのちに「平和」(へいわ)→「さくら」となる。以下、さくら_(列車)を参照されたい。
ピンク バター 天使ノタ マルチ 華の段 メロン カーリング ゲットー バイオガス ハンカチ ハンドマ チューリン バナナ レパシー サープラ ロザリ キンリー ウエス シェリフ アンソ チェロ さらくやし ピーエル ギング モノキ トリポ ラップカ ハイデ 枸橘 高麗人参 リベラル ワイル ブレーキ ちょうせき トレーダー カモミー アージュ リム いっきく おのえ フィナーレ ゴニウム ノギス ソフト スポイル マベパール ラクトース きわの マフィン ングイン

20系固定編成客車「あさかぜ」の登場とその発展 [編集]
1958年(昭和33年)10月1日 「あさかぜ」に新たに開発された20系客車に置き換えられる。
「あさかぜ」の当初は下記に示すとおり10系軽量客車を含めた在来客車の編成であった。また、二等寝台車のうち1両は戦前製のツーリスト式3軸ボギー寝台車であり、急行列車と大差ない車両ばかりであった。それ故、特急用車両に見合う車両として開発されたのが20系客車であった。この20系客車は全車冷暖房完備の優秀な設備から「走るホテル」の異名を取り非常な好評を後年に至るまで得た。
1961年(昭和36年)10月1日 この日、後年「サンロクトオ」と称されるダイヤ改正を実施。このとき、東京駅発着の東海道本線特急列車で客車列車が「あさかぜ」を含めた九州特急のみとなり、列車番号が従来の7・8列車から3・4列車となる。
1962年(昭和37年)6月10日 同年5月12日に完成した三原駅 - 広島駅間電化に伴うダイヤ改正により、従来153系電車により東京駅 - 大阪駅を運行していた夜行急行列車「第2よど」を広島駅まで延長。東京駅 - 広島駅間運行の夜行急行列車「第2宮島」(だいにみやじま)として運行開始。
1962年10月1日 「安芸」、寝台車主体の編成となる。
1964年(昭和39年)3月20日 前1963年(昭和38年)12月20日に実施した東京駅 - 広島駅間の牽引電気機関車をEF58形からEF60形への交代に伴う「あさかぜ」編成の変更を実施。「あさかぜ」に一等寝台車が集中するいわゆる「殿様あさかぜ」として著名となる編成を組んだ。そのときの編成は下記を参照されたい。
1964年10月1日 東海道新幹線開業に伴うダイヤ改正に伴い、東海道本線夜行急行列車の再編を行う。それにより、以下のように変更。
「第2宮島」、昼行の「第1宮島」共々大阪駅 - 広島駅間運行となり、運行時間も変更となる。→以下、山陽本線優等列車沿革を参照されたい。
「筑紫」、運行区間を大阪駅 - 博多駅間とし、列車愛称をひらがな書きの「つくし」とする。→以下、山陽本線優等列車沿革を参照されたい。
1964年12月 東京駅 - 下関駅間を運行する電車急行列車として「長州」(ちょうしゅう)が運行を開始する。
この列車は、修学旅行列車「わこうど」のダイヤを用い、車両自体も同列車に使用された167系電車を用いた。
1965年(昭和40年)10月1日 この日までに、1964年6月から始まった「あさかぜ」ほか九州特急の一等座席車以外の全車寝台化が完成[1]。
1966年(昭和41年)3月25日 「長州」季節列車化。 
1968年(昭和43年)10月1日 「あさかぜ」、臨時列車で運行されていた1往復を定期化して、2往復体制となる。
1970年(昭和45年)10月1日 東京駅 - 広島駅間を呉線経由で運行されていた寝台急行列車「安芸」を格上げ統合。「あさかぜ」3往復体制となる。
但し格上げされた特急列車「あさかぜ」の方は山陽本線経由であり、運転時間帯も多少異なるため、これを単なる「増発」とみなす見解もある。この列車は、東京駅 - 下関駅間を運行、「あさかぜ(下り)3号・(上り)1号」とした。
1972年(昭和47年)3月15日 東京駅 - 博多駅間運行の1往復「あさかぜ(下り)2号・(上り)3号」を14系客車に置き換える。
1972年7月15日 博多発着列車で20系客車で運行されている「あさかぜ(下り)1号・(上り)2号」の編成を変更。個室2両を含むA寝台車5両とグリーン車が1両連なる編成となる。そのときの編成は下記を参照されたい。

2009年03月05日

夢魔/ゴルゴン

夢魔(むま)は、キリスト教の悪魔の一つ。淫魔ともいう。

夢魔のうち男性型のインキュバス(Incubus、インクブスとも)は睡眠中の女性を襲い、妊娠させる。女性型の夢魔は、サキュバス(succubus、サッカバス・サッキュバス・スクブス・サクバスとも)といい、睡眠中の男性を襲い、誘惑して精を奪う。

どちらも、自分と性交したくてたまらなくさせるために、襲われる人の理想の異性像で現れる。それぞれラテン語の「のしかかる(incubo)」、「下に寝る(succubo)」に由来する。一説にはインキュバスとサキュバスは同一の存在であり、自身に生殖能力が無いため、人間の生殖能力を借りて繁殖しているとされる。

ヨーロッパのある地方では「枕元に牛乳があると、サキュバスはそれを精液と間違えて持ってゆく」と言われ、悪魔よけに小皿一杯の牛乳を枕元に置いて眠るという風習があった。

ルネッサンス時代には「インキュバスは実際に女性を妊娠させうるか?」という議論が真面目に行われていた。というのも、この時代は生活環境の変化によって人々が性に奔放になり、都市部の若い(時には少女とも呼べるほどの年齢の)女性が父親不明の私生児を抱える例が多かったのである。

普遍的な「夢魔」
キリスト教以外にも夢魔によく似た存在(特に男性の夢に現れ精を奪うもの)が現れる宗教・伝承は多く、世界中に見られる。これはおそらく、夢精の合理的説明として「夢魔」という存在が考え出されたものであるからと考えられる。

サキュバス以外で「夢魔」の特徴を持つもの
アルプ
リリス
猫又

ゴルゴーン(古典ギリシア語:Γοργών, Gorgōn, 「恐ろしいもの」の意)、あるいはゴルゴー (Γοργώ, Gorgō) は、ギリシア神話に登場する醜い女の魔物である。日本語では長母音記号を省略しゴルゴン、ゴルゴともいう。英語読みはゴーゴン (Gorgon) 。

ポルキュスとその妻ケートーの子で毒牙を持ち、髪の毛の代わりに生きている蛇が生えている。グライアイ3姉妹の姉でもある。

しばしば黒い牡牛、黄金の羽、真鍮の爪、イノシシのような牙を持つとして描かれている。神話によると、ゴルゴーン族の顔を見たものは石になってしまう。ホメーロスは『イーリアス』の中で、ゼウスの盾アイギスに固定されているゴルゴーンの首について描写している。このゴルゴーンの首はペルセウスに退治された折切り取られたものを、のちにペルセウスが助力した神々に捧げたものである。

『オデュッセイア』ではゴルゴーンは下界の魔物とされる。ヘーシオドスは『神統記』でゴルゴンをステンノー、エウリュアレー、メドゥーサからなる3姉妹であり、海神の娘達であるとしている。さらにメドゥーサが自分の美貌を女神アテーナーに自慢したため、その怒りに触れて醜い姿にされたとする説も唱えられた。

ゴルゴーンの首は古典時代にはしばしば魔よけ(ゴルゴネイオン、Gorgoneion)に用いられた。イスタンブールの元システィン礼拝堂の礎石には、そのような魔よけ用のゴルゴーンの浮き彫りを彫った石が使われている。
ワンス ボデオ モンクレ シガト ドレア パーコレ スタート メジャー ピーエイ ソフトダ ロッド たむぽえ フレム パンジー 羅生門 ブリスベ 便利に イチゴ ストッ ニット えいか ハンド ジース カーネリ ドラー あいら パンゲア オブラ ジンサ スカジー ドルペッグ うたまくら えいこう モルディブ たいゆう ニオブ 美女と野獣 ドーマ トップ トパイ ダウンベ ナビルポ ナトリ ろぎょ オーニソム 雪舞い マルチ タイトルラ トリ キャメ

ギリシア美術では「真正面を向いた」人物描写は少ないが、ゴルゴーンに限ってはほとんどが真正面を向いた形で描かれている(LIMC IV/2を参照)。同様に「真正面」の描写が少ないメソポタミア・エジプト美術において常に真正面を向いて描かれるフンババ(同じく魔除けに使われた)やエジプトの神ベスとの共通点も指摘されている。正面を向いているのはゴルゴーンの持つ邪眼を機能させるためだとされている。また、ゴルゴーンのような魔除けはビザンツ時代になっても使われていた。


2009年02月13日

少女魔法学リトルウィッチロマネスク

『少女魔法学リトルウィッチロマネスク 』(しょうじょまほうがく リトルウィッチロマネスク)はアダルトゲームメーカーLittlewitchが製作したWindows用のアダルトゲーム。2005年7月29日に発売された。2008年6月27日には本作のフルボイス版であるeditio perfecta(完全版)が発売された。
バニラ ラバー 野かんぞう シバナ ナムル 青じそ ネムノ マンナン シュミー 春の小川 スキル マルシー フライ イノベー フェロール ウシカ おすすめ ライフ シュー スタイ ラードダ カタクリ 桜桃 ステッカ バイオ ドリフト テキス サイト刈穂 ルクラス シャンパン ピン幸運 ドラキュラ ヨード パレス トレー しりもち くさなぎ アックス すたー るはーぶ ワイルド ぴおーね 天使のア シスタ リライト ランス ナルキ サイバ グロブリン ポイント

ブランド名でもある、「Little witch」(=小さな魔女)を意識した作品。 処女作がSF的な「未来」、2作目である前作がクラシックを題材とした「現在」の話を中心としているが、今作では、ファンタジー要素を意識させる作品となっている。

主人公のドミノは9人目の大魔法使いとなった優秀な人物である。しかし、他の大魔法使いが魔法を出世の道具としてしか見ていないことに嫌気がさし、帝都を離れて辺境に1000年以上昔から建つと言われる「黒の塔」に住むことを決意する。

他の大魔法使いたちがそんな勝手を許すはずもなく、「3年間で一人前の魔法使いを育てること」を交換条件として持ち出してきた。 通常何十年もかかる魔法使いの育成をたったの3年で行なうのは無理難題な上、育てることとなった2人の少女は魔法院でも持て余している子達だった。果たしてドミノは無事にこの課題をこなすことができるのか。

ドミノ(声:寺島拓篤/竹田いづも)

大魔法使いの青年。過去に冒険者として活動していた時期があり、メレットやマリエラとはその頃に知り合った。

メインヒロイン
アリア・ヴァングリフ(声:本井えみ/野神奈々)

主人公の弟子として魔法を学んでいく少女の1人。北の大貴族「ヴァンクリフ公」の次女で、兄二人と姉が一人いる。貴族故の窮屈な生活と、 親が勝手に婚約相手を決めてしまったことに腹を立てて家出をして魔法院に入った。少々勝気なところと自信家過ぎるところがあり、おしとやかなカヤと自分を比べて凹むこともしばしばある。しかし根が真面目であり努力家であることから、様々な試練を乗り越え成長していく。貴族の娘らしくかわいい服やお菓子に目がない。家事は苦手で失敗も多い。
カヤ・シャビエ(声:和田カヨ/西田こむぎ)

主人公の弟子として魔法を学んでいく少女の1人。閉鎖的な少数民族「ロシタリ」出身。純血を重んじるロシタリ族の中にあって他民族との混血児であるということが原因で村を追われることとなり、その後は魔法院に入る。大人たちに囲まれた活動や、都会的な魔法院での生活になじめずにいた。大人しく引っ込み思案なカヤはアリアとは性格も思考も対極であり、仲違いすることもあったが、生活を進めるうちに打ち解けてゆく。好きなことは昼寝、お風呂、そして歌を唄うこと。

サブヒロイン
マリエラ・グランバック(声:寺田はるひ/桜川未央)

建築家。魔法院など様々な有名建築物を手がける売れっ子建築家。その性格は、一言で言うと「完璧主義者」といえ、美しい建築物だけでなく生活全般にいたるまでにこだわりがある。以前、ドミノとはなんらかの関係があったらしい。黒の塔の建築物としての素晴らしさに惚れこみ、そのまま住み込んでしまう。塔の増築、改装をしてくれるが、作業が終わった後には気分をすっきりさせるために体を求める癖がある。
オルガ・クローゼ(声:-/和葉)

幼少期より、「癒しの奇蹟」が使えたため、法王庁から「癒しの聖女」の称号を授けられる。聖女であるということに加え、その質素で真面目な性格から、法王庁のみならず民衆からも絶大な人気を誇る。物語序盤でドミノの人柄を見極めるために黒の塔に来訪し、そのまま住み着く。
フィアンナ・メロワ(声:能登麻美子/中家志穂)

現皇帝の一人娘で、「花のフィアンナ姫」と呼ばれている。宮廷で大事に育てられたため、他人の悪意にひどく鈍感で何事も好意的に受け取ってしまう。国をより豊かにするための方策を父である皇帝に提案するなど、単なる箱入り姫様ではないようだ。趣味の絵画は非常に独創的なのだが、それを指摘できる(しようとする)人間はいない。
オリヴィア(声:桑谷夏子/白井綾乃)

元奴隷剣闘士で現在は賞金稼ぎ。通称「魔嬢オリヴィア」。6匹の猟犬を自在に操り、戦い、剣闘場無敗の伝説と共に自由の身を勝ち取った。元は高貴な身分だったが、とある事情により奴隷となった。気丈な性格だが、素直で他人思いなやさしい一面も併せ持つ。
メレット(声:-/本山美奈)

昔、主人公ドミノと共に冒険したエルフ。「墓穴を掘る」という言葉がぴったりの、はた迷惑な存在。虚言癖とまではいかないものの、大げさに物を言ったりすることが多い。しかし、その嘘を突き通すために協力も厭わないという面倒見のよさは感嘆すべき憎めない女性。

サブキャラクター
ティエ(声:門脇舞/佐々留美子)

フィアンナ付きのメイド。猫耳、猫シッポを持つシャオ族の出身。シャオ族は代々女性しか生まれない種族で、主に有力貴族などに付き子孫を残す。ティエも例に漏れず、皇帝のハーレムに献上される予定だったが、ティエのことを気に入ったフィアンナが自分付きのメイドとする。そのことでフィアンナ姫には多大な感謝をしている。発情期が存在し、発情期になると体を求めてしまう。
コンスタンティーヌ(声:-/金田まひる)

元妖精王。人間と交わったため妖精界に帰れなくなった困った妖精。性格は破綻しており、人をおちょくるような言動を繰り返す。元妖精王なだけはあり、その魔法能力の高さによって様々な魔法道具を生み出す。波乱万丈な一生を送っており、自分も、他人にとってもそれこそが幸せだと信じて疑わない。
セファ(声:力丸乃りこ/東かりん)

遥か以前の黒の塔の塔主によって召喚された天使。天使としての実力は最下層なのだが、それでも人間を遥かに超える魔力を持っている。誰の言うことでも素直に聞いてしまい、また善悪の判断もついていないので、放っておくと何をしでかすかわからないトラブルメーカー。ドミノのことは「ますたぁ」と呼ぶ。
ロゼッタ(声:-/風音)

オルガの警護を担当している女騎士。騎士の家系に生まれ、さらに家に男子が生まれなかったことから女性でありながら騎士として育てられた。自分は騎士だと自覚しながらも女性らしくないことを気にかけている。
エルモア(声:平松晶子/まきいづみ)

ヴァングリフ公の母。すなわちアリアの祖母に当たるが、外見はとてもそうは見えないほど若々しい。アリアには自分のことを「エルモアお姉様」と呼ばせており、「おばあさま」と呼ばれることを非常に嫌う。

システム
開発元のLittlewitchは、会話シミュレーション部分に、漫画を読んでいるかのような錯覚を覚えさせるFFD(フローティングフレームディレクター)という独自のシステムを導入していることで知られるメーカーだが、前作であるQuartett!のシナリオが短いという評価を受けてか、今作からはフルFFDとせず、立ち絵にFFDで吹き出しを表示する形式とすることでシナリオの量を確保している。

Lesson・Learning

主人公の弟子であるアリアとカヤの育成にかかわるパート。6面ダイスを3つ振って出た絵柄により「スピリット」と呼ばれるポイントが貯まり、それを必要分消費することで魔法を習得することができる。スピリットには5種類あり、それぞれの魔法によってLearning(習得)に必要なスピリットの種類や量が異なる。
習得した魔法はLesson中に特定の組み合わせの絵柄を揃えることで発動し、ダイスから出るスピリットが増えるなど様々な特殊効果が発現する。魔法を上手く活用することでスピリットを効率的に獲得でき、魔法をより多く、早く習得することができる。また、ダイスをクリック(キック)することで出す絵柄を操作することもできる。Lesson開始時に選択する教室や先生によってダイスに描かれている絵柄が変わり、組み合わせによっては魔法の発動に必要な絵柄が足りなくなるために絶対に発動させることが出来ない魔法がある場合がある。
ここで習得した魔法が、後の試験やクエストをクリアするのに必要となる。
Quest

主人公の弟子であるアリアとカヤの育成、また各ヒロインの攻略にも大きくかかわるパート。Questを実行するために習得しておかねばならない魔法がQuestごとに設定されており、それを習得していない場合はそのQuestを選択できない。また同じ魔法であっても、アリアとカヤのどちらが習得しているかも関係する。
Questをクリアするとアイテムや新しい教室、ヒロインの好感度を得ることがある。
試験

このゲームの主目的である弟子の育成の成果を見るために、各年度の最終週に行われる。クリアすることが次年度へ進む(3年目は卒業する)ための絶対条件となる。ダイスを振って規定の課題をクリアすると試験合格となる。試験内容は特定の魔法を発動する、あるスピリットを一定以上獲得するなどがあり、アリアとカヤでそれぞれ別の課題が課せられる。特定の魔法を発動するという課題の場合、試験が行なわれる週までにその魔法を習得していないと試験を受けることもできずにゲームオーバーとなってしまう。

2009年01月27日

ストリーク・イーグル

F-15の性能を示す一例として「ストリーク・イーグル」がある。これは1975年当時の上昇時間記録に対してF-15原型機の内の1機を使用して更新を狙ったアメリカ空軍によるプロジェクト[5]で、名称中のstreakには本来の「電光石火の」という意味とともに、機体塗装を剥がしてしまった改装から、当時流行した裸で人前を走り回る「ストリーキング」をかけている。これは記録更新機自体の名称にもなった。

1962年に行われたアメリカ海軍の「プロジェクト・ハイジャンプ」においてF-4は3,000、6,000、9,000、12,000、15,000、20,000、25,000、30,000mの8高度までの到達記録を更新した。 それに対して1973年にソビエト連邦はMiG-25の特殊改造機(E266)により20,000から30,000mまでの3つの記録を更新していた。本計画は国際機関の公認する上昇記録をソビエト連邦やアメリカ海軍から奪取することでアメリカ空軍の持つF-15の優位を誇示する狙いがあった。

原型5号機と19号機から約360kg軽い19号機を選び、レーダー・緊急用フック・機銃など不要な装備品を取り外し塗装すら剥がして徹底的な軽量化を図った。ただし、特別な推力装置の追加といった改修・改造を施してはいない。計測は1975年の1月16日から2月1日にかけてノースダコタ州グランド・フォークス空軍基地で空軍のロジャー・スミス少佐、W・R・マクファーレン少佐、デイブ・ピーターソン少佐の操縦により行われた。その結果、以下の様に8つの上昇記録をすべて更新した。機体の改修に要したコストは210万ドルだった。

到達高度 従来記録[秒] プロジェクト記録[秒]
3,000m 34.52 25.57
6,000m 48.787 39.33
9,000m 61.629 48.86
12,000m 77.156 59.38
15,000m 114.50 77.02
20,000m 169.80 122.94
25,000m 192.60 161.02
30,000m 243.86 207.80

ソビエトはこの記録更新に対して、同年5月にMiG-25の特殊改造機E-266Mにより25,000mを154秒、30,000mを189秒と更新している。 現在ではSu-27/P-42が3,000mから15,000mまでの記録を更新しているため、F-15は20,000mの記録のみ保持してい

第65アグレッサー飛行隊所属機(2007年)
Su-27のものを模倣した塗装が施されている
Tu-95を追跡するF-15
KC-135から空中給油を受けるF-15C1976年にバージニア州ラングレー空軍基地の第1戦術戦闘航空団がF-15Aを受領し、初の実戦部隊となる。以降、F-4やF-104、F-106といった旧式化した戦闘機と置き換える形でアメリカ国内の部隊や在日アメリカ空軍、在欧アメリカ空軍の部隊へ配備が行われた。また、アメリカ空軍州兵への配備も行われた。
当初はF-15が制空戦闘機・要撃機の役割を担う予定だったが、高価な機体であるためにアメリカ軍でも十分な数を調達し切れず、安価なF-16を開発して大量に配備する「Hi Lo Mix(ハイローミックス)」運用となっている[6]。この体制は、後継機種であるF-22とF-35にも引き継がれる。
最終的なアメリカ空軍のF-15A/B/C/D購入数は911機で、2007年11月現在でも442機を保有している。
当時、要撃機として運用されていたF-106の老朽化が進み、その後継としてアメリカ海軍のF-14と採用を争った。しかし結果としてどちらにも決定されなかった。結局はF-106が退役するに伴い、なし崩し的にF-15とF-16が要撃任務を引き継ぐ恰好になっている[7]。
現在は派生型のF-15Eや、後継機であるF-22の調達により数を減らしている。
配備開始
アメリカ空軍はまず、1974年11月14日にアリゾナ州にあるルーク空軍基地の第58戦術戦闘訓練航空団に複座型の量産一号機を配備し、以降も優先的にこの部隊へ配備を進めた。この部隊では後に編成される部隊の中核要員として、ベトナム戦争の従軍経験のあるF-4やF-104のベテランパイロットを主体に機種転換訓練を実施した。
1976年1月9日にバージニア州ラングレー空軍基地の第1戦術戦闘航空団がF-15Aと機種転換訓練を終えたパイロットの編入により最初の実戦部隊となった。以降はアメリカ国内のF-4部隊の更新が続き、1979年までにニューメキシコ州ホロマン空軍基地の第49戦術戦闘航空団、フロリダ州エグリン基地の第33戦術戦闘航空団がF-15A/Bの受領を開始した。
また、1980年からは生産がF-15C/Dに切り替わり、F-4およびA/B型を並行して更新することとなった。F-15C/Dの配備は迅速に行われ、同年8月には海外の部隊も含めたすべての実戦部隊がC/D型の受領を完了した。余剰となったF-15A/Bは第58戦術戦闘訓練航空団の後身である第405戦術訓練航空団や、新たに編成されたフロリダ州ティンダ空軍基地の第325戦術訓練航空団へ配備された。また、アメリカ空軍の予備部隊とも言えるアメリカ空軍州兵(Air National Guard)へ、2005年には第65アグレッサー飛行隊へ余剰となったF-15の配備も行われている。
海外の部隊への配備
アメリカ本土以外での最初の配備は1977年1月5日から西ドイツ西部のビットブルク空軍基地駐留の第36戦術戦闘航空団へ行われ、F-15A/Bの約80機、3個飛行隊が編成されワルシャワ条約機構軍攻撃機の迎撃の任務に就いた。1980年からは順次F-15C/Dへと更新されている。ワルシャワ条約機構軍の侵攻の際に出来るだけ打撃を受けないようにという配慮から国境からできるだけ遠いこの基地が選ばれた。
次は1978年9月にオランダのソエステルベル基地第32戦術戦闘飛行隊に配備された。アムステルダムに近いこの基地が選ばれたのは、ワルシャワ機構軍が西ドイツに侵攻する場合、ソビエト軍の長距離爆撃機が北海やバルト海から侵入すると予想されていたためである。
1985年にはアイスランドの第57戦闘迎撃飛行隊に配備されたF-4と入れ替えが行われた。この部隊もソビエト軍長距離爆撃機の迎撃任務を主としていた。
極東では1979年に日本の嘉手納空軍基地に所属する第18戦術戦闘航空団の老朽化したF-4の交替機としてF-15C/Dを順次配備し、1980年8月に3個飛行隊すべての更新を完了した。
配備基地

ルイジアナ空軍州兵第159戦闘航空団第122戦闘飛行隊所属のF-15A
旧西ドイツ空軍(1982年当時)のRF-4Eと第33戦術戦闘航空団第58戦闘飛行隊所属のF-15A(S/N 76-0033号機とS/N 76-0058号機)アメリカ国内
ラングレー空軍基地(バージニア州) - 航空戦闘軍団第1戦術戦闘航空団第71戦闘飛行隊
エグリン空軍基地(フロリダ州) - 第33戦術戦闘航空団第58戦闘飛行隊 - 第60戦闘飛行隊
ネリス空軍基地(ネバダ州) - 第57戦術戦闘航空団第65アグレッサー飛行隊
マウンテンホーム空軍基地(アイダホ州) - 第366混成航空団第390戦闘飛行隊
ティンダル空軍基地(フロリダ州) - 航空戦闘軍団第1空軍第325戦術訓練航空団第2戦闘飛行隊 - 第95戦闘飛行隊
太平洋空軍
エルメンドルフ空軍基地(アラスカ州) - 第11空軍第3航空団第19戦闘飛行隊
在日アメリカ空軍
嘉手納基地(日本) - 太平洋航空軍第18戦術戦闘航空団第44戦闘飛行隊 - 第67戦闘飛行隊
在欧アメリカ空軍
レイクンヒース基地(イングランド) - 第48戦術戦闘航空団第493戦闘飛行隊
アメリカ空軍州兵
フロリダ空軍州兵(ジャクソンビル国際空港) - 第125戦闘航空団第159戦闘飛行隊
ハワイ空軍州兵(ヒッカム空軍基地) - 第154航空団第199戦闘飛行隊
マサチューセッツ空軍州兵(バーンズ空港) - 第104戦闘航空団第131戦闘飛行隊
モンタナ空軍州兵(グレートフォールズ国際空港) - 第120戦闘航空団第186戦闘飛行隊
オレゴン空軍州兵(ポートランド国際空港) - 第142戦闘航空団第123戦闘飛行隊
ルイジアナ空軍州兵(ニューオルリンズ海軍基地) - 第159戦闘航空団第122戦闘飛行隊
冷戦の終結以降は旧東側、現在では北大西洋条約機構(NATO)の一員となっているルーマニアのコスタンツァ基地など、多くのNATO軍基地にF-15が展開している。
一方で、後継機のF-22などの配備に伴い更新が進められている。
まず、2005年にラングレー空軍基地の第1戦闘航空団に編成されている3個飛行隊のうち、2個飛行隊がF-22に更新された。2006年にはアラスカ州エルメンドルフ空軍基地とニューメキシコ州ホロマン空軍基地、ハワイ州ヒッカム空軍基地への更新・配備が行われた。フロリダ州ティンダル空軍基地の転換訓練飛行隊への配備も行われる予定である。
ルーク空軍基地第58戦術戦闘訓練航空団のF-15A(1975年)
フレアを放つアメリカ空軍第325戦術訓練航空団所属のF-15D
第57戦術戦闘航空団第65アグレッサー飛行隊所属のF-15とF-16
NASAで実験に用いられているF-15B
バク転 ルーシュ ハーブ シニカ テンペラ オーソー スラウ タナトス パンヤゾ いす 夢のカケラ コテージ リターン シーバー ディズム 不死鳥 パドボ 無邪気 アニン シノプシ クリア ラック 君の左手 ライム テストケー ダラス バイア ツルグミ めじり パントモ ニュー ニング エカナ ルノワー シング スカイブル マルメロ パジャマ こむぎ ズボン ウエハース きょうりん ステラ リレー きんかん ドレナ スキーリ パラメデ ローフ アイスティー

ASAT発射実験1983年、当時のロナルド・レーガン大統領の推し進めた一連の「SDI計画」(スター・ウォーズ計画)の中に、F-15を衛星攻撃ミサイルの発射母機とする計画が存在した。
古くは1962年にF-4を発射母機とする「カレブ」という四段式固体燃料ロケットの開発、及び二段式ロケットの発射実験を行ったのが始まりである。
この実験ではSDI計画の発表以前の1979年からボート社に発注されていた二段式の試作型攻撃破壊ミサイル「ASAT」を使用した。弾頭部はその形状から「フライング・トマト・キャン」と呼ばれた。空中発射実験は1984年1月12日に、実際に軌道上の目標に対する発射実験は1985年9月13日に行われた。
これらは計画の大幅な見直しで実験が中断され、「ASAT」とパッケージ化されアメリカ西部海岸防空の為に編成された第318迎撃戦闘飛行隊も解散した。また、計画の一部はMD計画に引き継がれている。(衛星攻撃兵器・ミサイル防衛も参照のこと)
実戦投入
アメリカ軍所属のF-15の初の実戦は1990年に発生した湾岸戦争であり、初飛行から18年後となる。
湾岸戦争
1990年8月2日、イラク軍は隣国クウェートに侵攻し約4時間でクウェート市を占領、8月6日にはサウジアラビア国境付近まで展開した。これに対してサウジアラビアはアメリカ合衆国を含む友好国に派兵を要求、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(当時)は即座に派遣を決定した。要請の翌日である8月7日から、バージニア州ラングレー基地の第1戦術戦闘航空団第71戦術戦闘飛行隊の24機のF-15Cは10回以上の空中給油を繰り返し大西洋から地中海まで13,000kmを15時間無着陸で横断し、アメリカ軍で最初に派遣された部隊ともなった。
この派遣を皮切りに、当時最新鋭だったF-15Eを含むアメリカ空・海軍の飛行隊が、順次サウジアラビア入りした。11月29日に国際連合にて「国際連合安全保障理事会決議678」が採択され、イラク軍のクウェートからの撤退期限を1991年1月15日としたが、それまでの間のサウジアラビアへの部隊配備や物資輸送作戦を「砂漠の盾」作戦と呼称し、F-15は24時間のフル稼働で戦闘空中哨戒を行った。

F-15とF-15E、F-16による編隊イラクは1月15日の撤退期限を無視。このため多国籍軍は、1月17日「砂漠の嵐」作戦(Operation Desert Storm)を発動させる。同日の早朝、イラク領内の爆撃のためにF-15EやF-111などの護衛として4機のF-15Cが出撃した。イラク上空を警戒中の早期警戒管制機E-3が所属不明機の機影を捉えて連絡、F-15はIFF(敵味方識別装置)での識別後、AIM-7Fを発射。パイロットのテイト大尉がアメリカ空軍のF-15による最初の撃墜を記録することとなった。この撃墜は湾岸戦争での最初の撃墜記録ともなっている。同日、この撃墜を含め3機のMiG-29と3機のミラージュF1の撃墜が確認されている[8]。
以降の作戦期間中、アメリカ空軍所属のF-15(E型を除く)は38機のイラク軍機を撃墜し、自軍機の被害はゼロだった。撃墜した38機のうちの約六割がAIM-7による撃墜である。
この一方的な戦果には、湾岸戦争の交戦規定ではベトナム戦争では禁じられていた目視外距離戦闘が許可された影響が大きい。IFFの照合のみで敵味方を判断してAIM-7を使用することで一方的に撃墜でき、さらにE-3などの早期警戒管制機とのデータリンクによって成果を上げている。皮肉にも、ベトナム戦争で果たされなかったミサイルキャリアーの概念を、ベトナム戦争の戦訓から生まれた格闘戦闘機F-15が実現したといえる。
コソボ紛争
コソボ紛争にもF-15は投入された。しかし、空中戦がほとんど発生しなかったため、AIM-120によってMiG-29を4機撃墜したに留まっている。
イラク戦争
第1戦闘航空団第71飛行隊所属のF-15が、2003年のイラク戦争でイラク軍のミラージュF1を撃墜している。
近代化改修
現在、アメリカ空軍のF-15はMSIP-1及びMSIP-2と呼ばれる近代化改修を行っている。
MSIP-1
F-15A/Bに対して段階的に行われた近代化改修。レーダーをAPG-63 (V) 1へ、エンジンをF100-PW-220へ交換し、あわせて電子戦機器の近代化を行った。改修対象外となった多くの機体はモスボールされている。これらについて一時ボーイング社が東欧諸国へC/D相当に改修した上での売却を計画していた。
MSIP-2
F-15C/Dに対して1989年から行われた近代化改修。レーダーをAPG-70、更にAPG-63 (V) 1(一部の部隊では、アクティブ・フェーズドアレイレーダーである APG-63 (V) 2 AESAやAPG-63 (V) 3)へ、計器のデジタル化、AIM-9Xに対応した機器(JHMCS等)の追加、リンク16への対応等を段階的に行う。
21世紀を迎えて

F-15とF-22冷戦構造下の1980年代において、F-15の後継機の開発のためのATF計画「先進戦術戦闘機計画」により、ステルス戦闘機F-22が開発された。だが、ソ連崩壊による冷戦の終結で、1996年末より運用を開始するはずだったF-22の開発・配備計画が先送りとされ、アメリカ空軍に配備されていたF-15に前述の近代化・延命改修が施され、AIM-120やAIM-9Xなどの新型ミサイル、JHMCSなどの新型機器の運用が追加された。
こうして、第4世代戦闘機の中でも初期に出現した機体ながら諸外国の戦闘機と十分渡り合える性能を維持し続け、2025年を目処に現用の442機のF-15C/Dを全機退役させる予定だった。
ところが、2007年10月2日に発生したF-15Cの空中崩壊事故を受けて全機を検査した結果、うち180機で金属疲労による老朽化が判明し、当該機を即退役とするために当初の機材繰り予定の大幅な変更を余儀なくされる公算が高まりつつある。しかし、2008年アメリカ合衆国大統領選挙で、バラク・オバマが大統領に当選したことからF-22の生産ラインの閉鎖がほぼ確実視されている為、一部8,000時間とした寿命を10,000時間に引き上げるなどの対策を行っている。